第28回 府中文化村

「市民協働とまちづくり

2016.09.26開催)

 

今回の府中文化村はわが街府中の高野律雄市長に『市民協働とまちづくり』というテーマで府中を語っていただきました。

高野市長は府中わかば幼稚園の園長先生としてご活躍され、1999年に府中市議会議員初当選した後、2012年に府中市長選挙に初当選、本年2016年には再選を果たしました。

また、立教大学でラグビー部主将としてラグビーでも活躍されてきたことから文武両道な政策を推進しています。

 

さて、今回のテーマにもある『市民協働』とはどういったものか、市民協働はどういった思想なのか。府中市のホームページや市の活動報告を見れば誰もがわかることですが、実際のところ府中市はどのような活動をしているのか

府中のトップリーダーである高野市長から語っていただくことでその政治思想を理解できるきっかけの一つとなる講演となりました。

 

ここでは「市民協働」についての説明は割愛し、私なりに感じた府中市長・府中の政治哲学を簡単に論文調でレポートしたいと思います。

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市民協働とは

まず府中市が取り組んでいる「市民協働」を府中市では「多様でたそうな主体が情報を共有し、相互の立場や特性を認めつつ、対等の立場で、それぞれの役割を果たし、共通する課題の解決や社会的な目的の実現に向けて、公益的な価値を相乗的に生み出すため、連携・協力すること」(https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurashi/shiminkyoudou/kyodonosuisin_kihonhosin.files/hosin.pdf)と定義する。

この「協働」とは、明確な定式化がなされているわけではないため、府中市での取り組みと府中市での協働の思想が以上のように定義されているが、この取り組みで市民が積極的に参加していくことにより地域活動の活性化や市民の意識向上をもたらすことが期待されているのである。

 

府中市の市民協働と政治思想

数年前、NHKで放送されていた『ハーバード白熱教室』という番組で人気となった政治哲学だが、こうした定義はハーバード大学教授M.サンデル氏の共同体主義思想を想起させる。

共同体主義(Communitarians)とは一口に言えば、政治哲学上の自由主義(Liberalism)に対抗する思想で個人と共同体を密接な関係とし、共同体的価値(common value)を尊重することでコミュニティに関わる人々の善き生を構想する思想である。(詳しくは論者による)

政治思想を倫理学的に考察していることでこうしたコミュニタリアン的な共通価値(共通善)の取り扱いに若干の相違はあるが、府中市の市民協働の思想にある通り、協働はわがまち府中でともに暮らすコミュニティ関係者である私たちの共通の課題解決や社会的目的の実現の手段としてこうした公益的価値を創造し、ともに高めていく点で府中は共同体主義的思想であると私は考える。

 

なるほど、市民個人が乱暴な意味でリベラルな個人として描写する政治哲学は現代にはあまり見られないかもしれないが、私はこうした共通的価値・公益的価値の増減という観点が市民・行政の連携・協力の射程に捉えた高野市長の政治哲学の本質であり、市民協働による期待される効果の真の意図が、協働による市民の覚醒というものを促すポジティブアプローチにあるのではないかと感じる。

 

課題解決―行政と市民―

こうしたアプローチは、府中市のトップリーダーとして思想的にも政策的にも非常に共感されるところの一つである。

高野市長の講演にもあった通り、数年または数十年前まで市民は何かあれば行政に任せておけば良いという感覚、つまりそのコミュニティでの対立や課題は行政の管轄であり、過言すれば市民はそのコミュニティに税金を払って住んでいることで対立の先、解決の管轄は行政にあると感じていたかもしれない。それは対立と解決が乖離した状態を意味する。

しかし、ここ数年のインフラの整備や科学の進歩によって人の流れや物の流れがますます流動的となり、便利さ故の弊害による不可のかかったコミュニティを現在の状況とすると、既に行政区分では処理できない案件が多々発生しているのは偶然的ではない。したがって、コミュニティの関係者である市民とその行政は互いに連携して課題解決に取り組むことが必要となることは必然なのである。こうしたConflict-Resolutionは府中市のみならず、それぞれの地域で積極的に取り組む課題となっているのかもしれない。

 

共同体の構成員としての個人

府中市での協働推進は市民理解への一つとして「市民協働まちづくりカフェ」や「各シンポジウム・講演会」を通して、また市の広報から情報は比較的オープンにしている。しかし、私見では市民理解は十分ではないと言える。市民的徳の享受と公益的価値の増加には、まだ市民理解や市民の参加を必要とするはずなのである。情報がいくら開かれていても、選挙の投票率からもわかる通り、市民の受動的姿勢という問題は堆積しているのである。

最近よくニュースで耳にする、「コミットメント(commitment)」はフランスの哲学者J.P.サルトルの「アンガージュマン(engagement)」と訳されることも多い。

だが、コミットメントはただ「与する、社会参与する」という意味だけではなく「参与することで責任を担う」つまり責任を持って社会参加するから約束や役割が発生すると考えられる。市民が行政と「協働」するということ、また逆に行政が市民と「協働」するということは、双方向に市民協働にふさわしい責任が存在するのではないかと思われる。

 

私たち府中文化村はこうした市民参加の一端を担える団体として、行政が回収できない市民の声や課題と、市民が行政に届けられない声と課題を連携させることができるように活動する義務があると感じる。

それは個人レベルでも同様、自分たちの住むまちの住みよさとは、自分たちの手で獲得するものであるという意識がコミュニティの構成員たる私たちには必要なのである。

 

最後に

今回の講演の参加者は府中内外から集まった人々であり、その後の質疑応答では多くの質問と疑問点・納得のいく点があった。時間の都合で限られた質疑応答しかできなかったが、その中でも府中市内の高校に通う、高校三年生の男子生徒たちが多く参加してくれたのである。

中には他の意識が働いたために参加した生徒もいたかも知れないが、それぞれ感じるものがあったという。先に書いた通り市民協働を推進するにあたり、コミュニティの構成員たる私たち市民が政治や行政の活動、または自分の生活するまちに関心を寄せ、積極的に住みよいまちづくりのためにコミットする必要がある。この先、こうした高校生や社会を担っていく若者に対し、協働の必要性を説くことができるだろうか。

また、この投票率の低さが嘆かれる現代に選挙権をもつ若者にどのように意識を向けさせるかが行政の課題であると思われる。

私たち大人は逆に、そうした若者に恥じないよう住みよいまちづくりを考え、積極的に市民協働活動へコミットしていくことでコミュニティを構成する自分たち大人だけでなく、未来を担う次世代の存在への責任を感じていくべきだと思うのである。

 

わがまち府中が、より良く・より善いまちになるように今からでも府中市民的徳を獲得していけるように何か取り組んでいく、そんな団体をわれわれも目指していこうと思うのである。